🔶沖繩県立第二高等女学校
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沿革
1・我が学び舎沖縄県立第二高等女学校。今は思い出の中にしか存在しないが、白梅学徒隊員が多感な乙女時代を過ごした懐かしい母校である。人生最大の悲劇『沖縄戦』が生涯付きまとう世代だが、善きにつけ、悪しきにっけ、今日の私たちを育んでくれたのは女学校時代ではなかったかと思う。
1941年4月、入学。その年の12月には、太平洋戦争が勃発したのであるが、沖縄戦が卒業の年、1945年に起ころうとは、誰がそれを予想し得ただろうか。
1905年、私立那覇女子技芸学校として開校した母校は、1928年に県立に移管して14年だったが、先輩諸姉によってモダンで進取の気風が創られ、学校中が活気に充ち満ちていた。
学校は、那覇市の松尾山高台にあり、瀟洒でモダンな校舎、トンネルを通り抜けて行き来した運動場、四季折々に美しかった花園と、そのどれもが私たちの自慢の種だった。
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1941年入学の私たちから、憧れの制服は全国統一の女学生服となり、1944年からは労働スタイルのモンペ姿に。胸に付けた小さな校章だけが誇りだった。
それでも2年生の頃までは、楽しい学園生活を過ごしたように思う。学校の教育方針により、主要教科だけでなく、音楽、美術、体操面にも若い情熱を燃やした。しかし1944年10月10日、米機動部隊による沖縄大空襲(十・十空襲)で校舎は完全に消滅。戦後の学制改革によって母校は自然廃校となり、40年の短い歴史を閉じた。


