🔶生かされた者として 戦後のあゆみの中で


 
 

白梅之塔に集う

 ①白梅之塔建立と第1回慰霊祭
  白梅隊引率者の金城宏吉先生は終戦と同時に二高女の職員・生徒たちの行方 調査を思い立ち、県内を奔走された。
  1946年1.月、米軍から南部糸満地区への移動許可が出て、金城先生は郷 里・豊見城村に。5月頃から、白梅隊の霊を祀らねばならないと思い立ち、同 じ引率者の與那覇政男先生、戦地からもどった西平一男先生とともに、戦死し た二高女関係者の慰霊祭を早く持つことを目的に仮の慰霊碑の建立に立ち上が った。
  その頃、糸満市国吉付近で、白梅隊員多数が戦死したことがわかり、仮の碑 を建てる場所は、国吉集落の南側の丘にする。工事は石工一人、糸満近くの二 高女卒業生、糸満高校国吉分団の男生徒数人の応援を得て作られた。碑の表に 『白梅之塔』、裏に『散りてなほ香りは高し白梅の花』の句が刻まれている。 簡単に除幕式をすませ、第1回の慰霊祭を行ったのが1947年1月のことだった。
  戦後の先生方は、生き残ったこと…について、戦没白梅隊員への呵責の念に 苦しんでおられた。生還した白梅隊員も同じ気持ちだった。
  先生方は戦争の犠牲になった教え子たちを悼んで、慰霊碑建立に立ち上がられ、『戦没した学友たちの供養は私たちの責務…』と同期生、同窓会先輩諸姉が 協力、ご遺族の方々も参加されている。
  以来、この碑を中心に元職員の手で、白梅隊の同期生たちの力を借り、ご遺族、元職員、同窓生多数の参列を得て、毎年、慰霊祭が行われ、4回を重ねて来た。

   ②自梅之塔建て替えと遺骨収集
  世の中が次第に落ち着きつつあり、資金集めも可能とみて、先生方が塔の建 て替えを考えていたとき、遺族、同窓会員の中からも、声が出て、高嶺村(現 糸満市)国吉のウテル原(現在の白梅之塔敷地)の自然壕のそばに建立するこ とにした。
  そこで高嶺村長のお世話で、国吉集落の了解を取り付け、高嶺村の『バクナ ー中将並びに白梅之塔整備期成会』にも協力を願い、塔建立計画を進める。
資金は4回の慰霊祭の香料だけだったので、同窓生、ご遺族の有志の方々、 その他関係者のご芳志を戴くことにし、資金づくりに奔走。 慰霊の塔と納骨堂は1951年7月に竣工した。
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 教え子たちの遣骨収集をと、金城宏吉先生は1950年7月、国吉の壕の確 認に出かけたがわからなかった。 1951年5月。與那覇先生と上の壕にいた白梅隊員、同期生でもう一度壕 を捜し、上の壕と下の壕を確認。
  7月、白梅之塔、納骨堂が竣工。
その後方の岩山の自然壕(下の壕)で白梅 隊の6人が戦死したとのこと。
  8月、国吉地区の方の協力で、遣族も来てくださる中、下の壕の骨拾いを行 った。
困難な作業だったが17柱の遺骨を収集する。 そのうち6柱が女性の頭だと分けることができ、11柱が兵隊ということに なった。
  この壕で、白梅隊6人が戦死したとなっているので、遺族に尋ねたが、どな たも自分の娘と確認できなかった。17柱のお骨は白梅之塔横の納骨堂に安置 した。
 8月19日に新しい『白梅之塔』の除幕式、第5回慰霊祭が行われる。

   ③同窓会が主体となった慰霊祭
  1952年6月に第6回慰霊祭が七周年忌といっしょに行われ、この年から は、慰霊祭も同窓会が主体になってやることになった。
 1978年に33年忌法要を行った後も、平和を希求する県民的行事として 慰霊祭は続けられている。それは、戦争を風化させないための一つの手立てに もなっていると言える。
 『白梅之塔』は、戦没者の慰霊を通して同窓生の心の拠り所となり、祈りの 場ともなっていたが、老朽化により、1992年6月に三代目の塔に建て替えられた。
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  『白梅之塔』の広い土地。この土地は、国吉の個人の方の土地だったが、『バ クナー中将並びに白梅之塔整備期成会』のお計らいで購入、今は国吉集落の所 有になっている。
そのため私たちは二高女関係の戦没者を祀り、毎年慰霊祭が 持てるのである。国吉集落や関係者に敬意を表し、感謝しなければならない。