🔶沖縄戦と白梅学徒隊の足跡
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看護隊への歩み、野戦病院入隊、野戦の逃避行
1.忍び寄る沖縄戦
1941年12月に太平洋戦争に突入、長期戦の様相となる。戦時体制は強化され、教科内容も変化 2年生2学期から英語を廃止。女子にも教練が課された。
政府は1943年、『学徒戦時動員体制確立要綱』を制定。『全国女子学徒動員』も決定した。沖縄でも男女中等学生は、軍の陣地構築作業や勤労奉仕作業に動員されるようになる。勤労奉仕の動員は、出征兵士留守宅の農作業や託児手伝い、製菓工場での菓子作り、県庁でのはがき書き等。
1944年の十・十空襲で母校の校舎はなくなり、授業再開のめどもつかないまま、離島や地方出身の生徒は帰省し、最寄りの軍の陣地構築作業に協力する毎日が続いていた。
2.第24師団看護教育隊
1944年11月、第32軍司令部の要請で、最上級の4年生70人ほどに看護教育が行われている。
1945年3月6日、東風平国民学校に開設されていた第24師団看護教育隊に4年生56人が入隊。内務班生活で看護学を受講する。
3月23日、沖縄本島南部に米軍の艦砲射撃が始まり、東風平国民学校での看護学習は18日間で打ち切られた。
3.第24師団第1野戦病院
3月24日から、第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕と手術場壕、他に現八重瀬町字新城の新城分院、同町字東風平の東風平分院で、それぞれ補助看護婦として傷病兵の看護に当った。
3月24日に、56人全員が本部壕に配置されたが、体調不良や家庭の要望などで数日の問に10人が除隊している。
学徒の任務は食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用であったが、学徒は野戦病院には無くてはならない存在であった。
約1カ月ほどして、本部壕の上の手術場壕に5人、東風平分院に5人、新城分院に5人と4カ所に分散しての勤務となる。手術場壕での学徒の任務は食事・排泄の世話に加えて、本部壕から食事を運ぶ「飯上げ」、手術時の照明係り「ろうそく持ち」があり、切断された手足や汚物の処理だった。
凄惨な手術場面にひるみがちだった学徒たちは、日を追って任務を自覚し不眠・不休で看護に励んだのである。
5月中旬頃には薬品も包帯材料も底を尽き、病院の機能は失われた。
4.解散命令下る
4月1日に沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍は、5月末には首里まで進攻している。
6月4日、白梅学徒たちに解散命令が下り、「自分で身の安全を守れ」と南に逃げるように、大勢では行くなと言い渡された。
5.南部戦線恐怖の彷径
解散命令が下り、46人の学徒たちは同郷の者どうしなど少人数でばらばらに病院本部壕を後にしたのであるが、鉄の暴風雨が吹き荒れる地上戦に巻き込まれ、逃げ惑うことになった。そのため、途中除隊した学徒の犠牲者も含めて22人が戦没。僅か10代半ばで、かけがえのない人生を断たれたのである。
6.戦火の中を生き延びて
白梅隊員のうち、34人が生還した。多くの仲間たちが投降または捕虜になったのである。
避難民収容所では、砲弾雨と死の恐怖から解放され、何カ月ぶりかで人間らしく食事をし、心身ともに安らかに休息した。そして、生きていて本当によかった…と思えるようになった。
私たちは、戦争の恐ろしさと愚かさを身を持って体験して初めて、どんな戦争でもそれを肯定する理由はない…ことを悟った。心の傷はあまりにも深く、生涯癒えることはないと思うのである。
1946年初め頃から、本島南部への移動が緩和され、次第に肉親や白梅隊員の消息も分かるようになってきた。隊員仲間に再会したときの感動は何とも言えない喜びだったが、戦死した隊員や消息不明の学友のことを耳にしては、悲しみにくれる日もあった。生きている私たちが悪いような気がして、胸が締めつけられるばかりだった。
1941年12月に太平洋戦争に突入、長期戦の様相となる。戦時体制は強化され、教科内容も変化 2年生2学期から英語を廃止。女子にも教練が課された。
政府は1943年、『学徒戦時動員体制確立要綱』を制定。『全国女子学徒動員』も決定した。沖縄でも男女中等学生は、軍の陣地構築作業や勤労奉仕作業に動員されるようになる。勤労奉仕の動員は、出征兵士留守宅の農作業や託児手伝い、製菓工場での菓子作り、県庁でのはがき書き等。
1944年の十・十空襲で母校の校舎はなくなり、授業再開のめどもつかないまま、離島や地方出身の生徒は帰省し、最寄りの軍の陣地構築作業に協力する毎日が続いていた。
2.第24師団看護教育隊
1944年11月、第32軍司令部の要請で、最上級の4年生70人ほどに看護教育が行われている。
1945年3月6日、東風平国民学校に開設されていた第24師団看護教育隊に4年生56人が入隊。内務班生活で看護学を受講する。
3月23日、沖縄本島南部に米軍の艦砲射撃が始まり、東風平国民学校での看護学習は18日間で打ち切られた。
3.第24師団第1野戦病院
3月24日から、第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕と手術場壕、他に現八重瀬町字新城の新城分院、同町字東風平の東風平分院で、それぞれ補助看護婦として傷病兵の看護に当った。
3月24日に、56人全員が本部壕に配置されたが、体調不良や家庭の要望などで数日の問に10人が除隊している。
学徒の任務は食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用であったが、学徒は野戦病院には無くてはならない存在であった。
約1カ月ほどして、本部壕の上の手術場壕に5人、東風平分院に5人、新城分院に5人と4カ所に分散しての勤務となる。手術場壕での学徒の任務は食事・排泄の世話に加えて、本部壕から食事を運ぶ「飯上げ」、手術時の照明係り「ろうそく持ち」があり、切断された手足や汚物の処理だった。
凄惨な手術場面にひるみがちだった学徒たちは、日を追って任務を自覚し不眠・不休で看護に励んだのである。
5月中旬頃には薬品も包帯材料も底を尽き、病院の機能は失われた。
4.解散命令下る
4月1日に沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍は、5月末には首里まで進攻している。
6月4日、白梅学徒たちに解散命令が下り、「自分で身の安全を守れ」と南に逃げるように、大勢では行くなと言い渡された。
5.南部戦線恐怖の彷径
解散命令が下り、46人の学徒たちは同郷の者どうしなど少人数でばらばらに病院本部壕を後にしたのであるが、鉄の暴風雨が吹き荒れる地上戦に巻き込まれ、逃げ惑うことになった。そのため、途中除隊した学徒の犠牲者も含めて22人が戦没。僅か10代半ばで、かけがえのない人生を断たれたのである。
6.戦火の中を生き延びて
白梅隊員のうち、34人が生還した。多くの仲間たちが投降または捕虜になったのである。
避難民収容所では、砲弾雨と死の恐怖から解放され、何カ月ぶりかで人間らしく食事をし、心身ともに安らかに休息した。そして、生きていて本当によかった…と思えるようになった。
私たちは、戦争の恐ろしさと愚かさを身を持って体験して初めて、どんな戦争でもそれを肯定する理由はない…ことを悟った。心の傷はあまりにも深く、生涯癒えることはないと思うのである。
1946年初め頃から、本島南部への移動が緩和され、次第に肉親や白梅隊員の消息も分かるようになってきた。隊員仲間に再会したときの感動は何とも言えない喜びだったが、戦死した隊員や消息不明の学友のことを耳にしては、悲しみにくれる日もあった。生きている私たちが悪いような気がして、胸が締めつけられるばかりだった。


